弱小の社労士FPが綴る 退職顛末記 第1回

現在59歳の「あお🐶の付き人:弱小の社労士FP」の櫻井です。
私はこれまで3回の退職を経験しましたが、今回はその原点となった1社目(36年前)の記憶を辿ります 。
1社目 1985年4月~1990年3月 (在籍期間)
1社目は港区のK社(現在はプライム上場)。
そこは、私の社会人としての基礎が作られた場所です 。
退職してから36年が経過しますが、いまでも年に数回はビールなどで🍺乾杯できる人たちが多く、
3年前に私が開業したときも、お祝い品を送って頂き、事務所まで訪問してくれた方達もいて、
この会社でのご縁に感謝しています。
「時間外100時間」が当たり前だった、熱狂のバブル時代
1985年4月に、高卒の新卒として入社したましたが、同期が200人以上もいる活気にあふれた会社でした。
私は生産本部に配属され、営業と工場の間をつなぐ製作進行管理を担当することに。
当時は朝が弱くてギリギリまで寝ていたので、毎朝、駅から会社まで全力で走り、
先輩たちがラジオ体操をしている横でタイムカードを打刻する。そんな毎日でした。
社内は常に戦場のような活気で、怒鳴り合いも日常茶飯事。
納期を守るために、月2回の土曜休みはほぼ返上、日曜出勤も当たり前でした。
今思えば、この時期に仕事に滞留させることは、後から悲惨な事になると骨身に染みて学びました。
そのせいで納期に余裕があっても、すぐに取り掛からないと気が済まない習慣が出来ていしまい、
他の人から見れば「せっかち」な人間と思わることもしばしば・・・
いまでも常に落ち着かないのは、この頃の強烈な副反応かもしれません(笑)
当時の状況を振り返ると:
- 労働環境: 毎月の時間外労働は100時間を超えていました 。
- 社内の風景: 伝票の締め切り前には、布団をレンタルして2〜3日泊まり込む社員が続出 。
今、社会保険労務士の視点で見れば、間違いなく「超絶ブラック」な環境です。
しかし、当時はそれが「社会」を学ぶことだと信じて疑わず、私自身、やらされている感じではなく、
能動的に仕事をしていたので、愛社精神100%で仕事に没頭していました 。
(個人的な見解ですが、仕事を覚えるには、ある程度の量が必要と私は思います。)
(もちろん過重労働はNGですけど)
退職のきっかけは、あまりにも「脆くて恥ずかしい」理由
あんなに仕事や会社が好きだったのに、退職を意識したのはある日突然のことでした。
きっかけは、当時付き合いを始めたばかりの彼女が退職を決めたこと。
(彼女は同じ職場ではないけど、同じグループ会社に勤務)
色々と当時は会社をやめる理由考えましたが、要約すると、
「彼女があたらしい決断をした」 「これを機に、自分も新しい環境を見てみたい」
23歳の私は、そんなあまりにも個人的で、脆い理由で転職を決意してしまいます。
そして技術を身に付けようと考えた結果、知識ゼロで建築の設計士になると決めました。
そして「将来は自分で設計した家に住みたいのだぁー!!」 そう彼女に告げ、
「やっちゃん素敵!」と感動されたことを覚えています・・・
今からふり返れば「世間知らずの浮ついたバカップル」のような勢いでしたが、
当時の私にとってはそれが全てでした。
(愛社精神100%はどこへ行った・・・?)
会社を「辞める理由」に立派な目標とかは必要ない
当時は職場の上司や先輩たちに、会社を辞める自分の決断を正当化しようと必死でしたが、今ならわかります。
会社を辞める際、会社側にとって「立派な理由」など、価値がありません。
(せっかく5年もかけて育ててくれたのに・・・と思いましたが、新しい世界への希望が勝ちました)
大切なのは、自分がその時、何を求めて動こうとしたか。
23歳の若さゆえの勢いで、ど素人の私は「建築設計の世界」へ飛び込もうと、
入社前の研修も含めると丸5年が経過した3月20日に退職しました。
そしてわずか5日後の3月25日、希望に胸を膨らませて中央区のD社へと転職します。
しかし、そこで待っていたのは……。
次回予告:希望に燃えて転職した先で待っていたもの。 5月22日頃に掲載予定です。
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